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南洋に飛躍した紀伊漁民

 三重県庁にあいさつに行くとパラオの話が出た。友好姉妹関係にあるのだ。クニオ・ナカムラ大統領の父親にあたる人が実は伊勢市の船大工で戦前にパラオに渡ったのだという。パラオには2002年に行ったことがあるので三重県が近いものになった。

 パラオはグアムからさらに飛行機に乗り継がなければならない。日本列島のほぼ南4000キロにある島国だ。第一次大戦で日本の委任統治領となって日本からの定期航路もできて発展した。戦前、パラオの巨大な環礁の内海は帝国海軍の泊地ともなっていた。1994年独立して、ナカムラさんが大統領になったくらいだから、日本人姓を持つ人も少なくない。

 三重県からパラオに思いが転じてしまった。海女がナマコも獲物としていたことを思い出したからである。鶴見良行氏に『ナマコの眼』という名著がある。鶴見さんはアジアの辺境に独自のアプローチから数々の価値を見出した民俗学者でもあると思っている。

 日本人はナマコを生で酢ものなどで食するが、中国人にとっては貝柱、アワビなどとともに珍味の一つである。高級食材といっていい。中華料理では乾物のナマコを水で戻して煮込む。日本人はコリコリ感を楽しみ、中国人はプリプリ感を好む。

 江戸時代、日本産のナマコは俵物として長崎から大量に輸出された。明治になると日本人はそのナマコをパラオに求めた。太平洋の島々で日本人によって採取されたナマコは乾物となってほとんど中国人の胃袋に入っていった。南洋群島が日本の委任統治領となると、さらに多くの日本人が一獲千金を求めて太平洋の島々を目指した。

 日本人はさらに南下してオーストラリアのアラフラ海のシロチョウガイを狙った。プラスチックが生まれる前のボタンの素材だった。ナマコもシロチョウガイもともに採取は海女の仕事である。南洋に亘った海女は女ではなく、ほとんどが男たちだった。『ナマコの眼』によるとその日本人とは主に紀伊と糸満の漁民だったという。

 鶴見さんのナマコの眼と通すと、パラオと三重県がつながるのである。紀伊は明治以降、東半分が三重県に編集されたから、紀伊といえば三重でもあるのだ。

 明治時代の漁船にエンジンがあったとは思えない。そんな時代に紀伊の漁民は4000キロ南の漁場を行動範囲としていたのだから、なんとも勇壮な話である。現在のパラオの人口は2万人に満たない。最盛期には8万人を超えていた。減少分は日本人の数である。多分パラオでは日本人の方が地元民より多かったはずである。つまり紀伊から万単位の漁民がパラオに渡っていたということになる。

 紀伊の漁民がパラオに出稼ぎに行き、裕福な中国人の胃袋を満たし、先進国のシャツの胸元を飾っていたと考えるとわくわくするではないか。

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