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倭と大和と日本

 ヤマトタケルノミコトは別名、小碓命。景行天皇の皇子で日本神話の英雄として登場する。九州の熊襲を討伐し、次いで東の平定を命じられる。東征の途上、斎宮として伊勢の地にあった叔母の倭姫命を訪ね、「父は私に死ねというのか」と嘆く。倭姫命は伊勢神宮にあった天叢剣(草薙剣)を授けた。三種の神器の一つとされる。

 とまぁ、これは誰でもが知っている神話であるが、伊勢の地に住むと、日本という国の成り立ちが気にならざるを得ない。日本の国名で外国人が読めないだろう地名がある。最たるものは「大和」と「武蔵」だろうと思っている。「音」でも「訓」でも、どう逆立ちしても「やまと」だとか「むさし」とは読めないが、普通の日本人はほとんどが読めてしまうのである。

 面白いことに「読める」ことと「書ける」こととは別物であるらしい。多くの友だちに「ヤマトタケルノミコト」と漢字で書いてもらうと、ほとんどが書けない。しばらく考えて「大和・・」などと書き出すのだ。

 日本書紀では「日本武尊」、古事記では「倭建命」でどちらも正解である。漢字と使った古い日本語の文章の悩ましさは、発音が分からないことである。百済を「くだら」と読ませたり、白村江」を「はくすきのえ」と発音させる。中高校生の時代に覚えていないとたぶん、一生読めない地名の一つとなってしまうだろう。

 「やまと」に戻りたい。日本語では「大和」だけでなく、「日本」も「倭」も「やまと」と読ませる。「にほん」や「にっぽん」と読むのは「日本」だけである。ややこしいこと極まりない。われわれが学校に通っていたときは、大和朝廷と習ったが、最近では「ヤマト王朝」などと教えるそうだ。

 「ヤマト」は奈良県にあたる律令制時代の国名である。現在の天理市にある大和神社(おおやまとじんじゃ)あたりも地名でもある。古代史にはまだまら解明されていない部分が多い。特に「邪馬台国」は九州説、奈良説といろいろある。しかし、その「やまと」と称された地域から生まれた政権が「ヤマト王朝」であるだろうことは異論はないようだ。

 いずれにせよ。日本書紀と古事記以前に書かれた歴史を持たないから、それ以前については中国の歴史書に頼らざるを得ない。東海の朝貢国の一つとして漢書に「倭」が登場するのが一番古い呼称だろう。「倭」は現在中国語の発音では「ウェイ」。漢の時代は「ワ」ではなかったかと思う。根拠はない。現在の日本語に中国に古い発音が多く残っていると思われるからである。

 しかしなぜ「ヤマト」が「倭」となるのか。もしかしたら「ヤマト」と「倭」は別物かもしれない。しかし、いつのころか「ヤマト」の人々は自らの国の表記に「倭」という漢字をあてることになった。遅くとも和銅年間には律令制の国の概念が確定している。そのころ「倭」は「大倭」と書くようになった。

 奈良時代の中期、橘諸兄が政権を握った時代に「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19)には再び「大倭国」へ戻された。そして、752年(天平勝宝4)あるいは757年(天平宝字元)に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。当時の正史である『続日本紀』書かれているそうだ。

 たぶん「倭」という漢字の意味を嫌って「和」にしたのだろうと思うが、さて「大和」をなんと呼んだのか。「おおやまと」なのか、単に「やまと」だけなのか。

 さて「日本」である。中国の文献では、8世紀前半に『唐暦』には702年(大宝2年)に「日本国」から遣唐使が来たことが記されている。後に成立した『旧唐書』、『新唐書』にも、遣唐使によって「日本」という新国号が唐に伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったか らだ」としている。国号変更の事情について、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、『新唐書』は「倭が日本を併合し、国号を 奪った」としており、混乱が見られる。いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことは確認できる。なお、これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である。(ウィキペディアから)

 国内的には「ヤマト」が「倭」「大倭」「大和」と変遷したのに対して、対外的には「倭」「大倭」「日本」へと変遷したということになろうか。読みはあくまで「やまと」だったのだろうと思う。そうでなければ「日本武尊」を「やまとたけるのみこと」と読ませることはできないからである。

 続日本紀は、日本書紀に続く正史として編さんされたもので、延暦16年(797年)に40巻の編さんを終えている。日本書紀が持統天皇までを書き、続日本紀は文武天皇から桓武天皇までである。(伴 武澄)

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コメント

安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。    宜しくお願いします。

投稿: つちかべ | 2014年1月 5日 (日) 16時05分

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