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神戸と神田

 生まれ故郷の高知市に神田という地がある。「こうだ」と呼ぶ。市内を東西に流れる鏡川の南のかなり広い区域で、今は住宅地であるが、子どものころは鏡川が決壊したときの遊水地帯として田んぼだらけだった。東京にも下町に神田はある。少年時代から慣れ親しんだ地名であるが、三重にやってきて神田という地名が全国各地にあり、それぞれに特別の意味があることを知った。神社が所有する田んぼであり、収穫は神のものとされた。

 神戸の方は神社が所有した民で、三重県に三カ所ある。一カ所は鈴鹿市の伊勢神戸、もう一カ所は津市神戸、そして近鉄大阪線沿線の青山高原の麓に伊賀神戸駅がある。ともに「かんべ」と呼ぶ。鈴鹿市はサーキットとして世界的にも有名となっているが、地名としては新しい。昭和17年、神戸と白子など隣接する町村が合併して命名された。

 鈴鹿市の神戸はかつては伊勢国河曲郡神戸郷といわれた。桓武平氏の一族関盛澄が神戸郷に住んで、はじjめて神戸氏と名乗った。北伊勢に勢力を張っていたが、7代目の具盛のときに織田信長に攻め込まれ、信長の三男信孝に家督を譲ることで和睦。変節を経て江戸時代には神戸藩、明治時代の廃藩置県ではほんの一時期、神戸県として存在した。

 さて、「神戸」である。古代には神の「部民」として伊勢神宮の私民が住んでいた。大化の改新の公地公民制以前、大和朝廷が中央集権体制となる前に各地に多くの「部」があった。品部(しなべ)、曲部(かきべ)など地方豪族が私民である「部」を抱えていた。

 伊勢神宮は天皇家以前には度会の神さまだった。天皇家と融合するぐらいだから、度会の神さまは全国の有力な神さまのうちの一人だったに違いない。その度会の神さまの「部民」たちが住んでいたため、神戸と呼ばれた。いってみれば、神宮領である。もちろん度会の神さまを祭る社を神宮と読んでいたとは思われない。もちろん私領であるから、租税は課せられない。免税地区である。

 免税といっても神宮を維持する資材労力を供給する立場にあったから、部民にとっては神宮に対する“租庸調”があったはずであるから、部民の負担は公地公民制とそんなに変るはずがない。

 度会は現在の伊勢市を中心とした伊勢国の地域の呼称である。伊勢神宮創建以来、度会は明治になるまで「神領」として特別の地位にあった。律令制の時代も武士の時代になっても「神領」だった。江戸時代にはさすがに行政的には徳川の天領となって代官が置かれたが、代官が権力を行使したのは司法警察権だけで、年貢の取立てはなかった。その時代になると神戸は単に地名として残っていただけで、伊勢神宮の神領ではなくなっていた。

 ともかく律令制の時代が終わるまで、度会の「神領」の飛び地として神戸があったと考えれば分かりやすい。伊勢湾沿いにそんな飛び地が多くあり、その地に住む民は伊勢神宮の維持のために年貢を捧げ労力の提供を義務付けられていたのである。

 三重県の神戸は残念ながら鈴鹿市の誕生によって歴史に名をとどめるだけとなった。兵庫県神戸市は明治以降、貿易都市として国際的にも台頭するが、それまで神戸といえば、伊勢の神戸藩のことを指した。ちなみに神戸市の神戸は生田神社の部民が住んでいた地とされる。

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