■日永追分から白子まで歩いて考えたこと
日永追分は今も国道の分岐点だが、鳥居が桜の木に囲まれてそびえ、「左いせ参宮道」とある道標は江戸時代のまま。
道幅はほぼ2間。乗用車がすれ違うには少々困難が伴うが、それほど交通量はない。歩く空間としては狭くも広くもない。神社や寺院が驚くほど多いのはさず
がに街道沿いの特徴でもあろうが、今の時代、人間の通行はほとんどない。
供は地図と十返舎一九の『東海道中膝栗毛」。旧街道にはレストランや喫茶店のたぐいは皆無だから、おにぎりと水筒も必携品。というわけで冗談を交わしな
がらの珍道中は望むべくもないが、江戸時代の人たちはずいぶんと歩いたものだと関心させられる。
歩きながら気付いたのは、日本の農村部の豊かさだ。もちろん門を構えた庄屋風の大きな屋敷も残るが、多くの農家がみな立派なのだ。広い敷地に200平米
はあろうかという平屋がうち続き、どの家にも3台の乗用車が鎮座する。メルセデスやBMW,国産高級車にスポーツカー、なんでもござれだ。
大都市と地方の経済格差が広がっているなどというのは大都会の貧しい住環境に住む学者や評論家のたわごとだとしか思えない。そんな風景がどこまでも続
く。企業の生産や賃金だけで豊かさを比べられるのか、そんな思いがしている。100年後の歴史に「21世紀になって日本の大都市と地方の経済格差が広がっ
た」と書かれるのかと思うと少々やるせない。
某業界紙にNHK「道中でござる」のコメンテーターとして江戸事情を語っていた石川英輔さんが「ゼロと10万の間」としておもしろい連載をしていたのを思い出した。昨年5月号は「人類は豊かさに耐えられるか」だった。
江戸時代の日本の家には物がなかったから「独り者ならいわゆる九尺二間つまり2・7メートル×3・6メートルの裏長屋でも狭くない」「長屋の自分の部屋は寝室であり、風呂は湯屋へ行くし、居間は湯屋の二階か髪結い床だ」と喝破する。
そう、筆者が勤務する狭い津支局の“応接室”は隣の喫茶店「桐」。客が来れば、すぐさま“応接室”に御案内し、顔なじみのママが“ご接待”に尽くしてくれるのだ。
食べ物に関しては行商人がひんぱんに長屋までやってくるから女房どもは日用品を買いに行く必要がなかったという。「腐りやすい食品でも、江戸は大坂では
行商人が鮮魚を仕入れては売り歩き、売り切れればまた仕入れに行くというふうにして、足でもって鮮度を維持してくれたから、差し当たり食べる量しか買う必
要はないし、冷蔵庫などなくても困らなかった」のだそうだ。
物が豊富にあれば、豊かなのか、考えさせられる。そういえば、子どものころはご用聞きという制度があった。電話もインターネットもない時代、商売人が家まで来てくれていた。もちろん子どもがお使いで一っ走りすれば、八百屋も魚屋も近所にあった。
石川さんのコラムで目からうろこだったのは、江戸時代=飢饉の連続という固定概念を頭から否定してくれたことだった。
「平地面積が日本の10倍近くあるフランスでは、1790年代の大革命のとき、わずか2300万人の人口しか養えなかったのに対して、当時の日本には
3100万人という当時の世界では中国に次ぐ大人口が生活していた。江戸時代初期の1600年当時には推定1200-1300万人しかいなかったのが、
1720年ごろには2・5倍にも増えていたから、江戸時代の稲作農業の生産力はヨーロッパとは比べものにならないほど大きかった」のそうだ。
その日本で「歴史上最悪だった天明の飢饉では、餓死者が約50万人、もっとも多かったのが南部藩で6万5000人が犠牲になったことになっている」が、
飢饉の度に大幅に人口が減っていたのでは江戸時代の人口増大は到底説明できないとしている。
「この数字は藩から幕府に提出した報告書でも寺院の記録でも一致しているが、近年になって見つかった『藩日誌』という藩の内部資料によると、この期間の人
口の増減は普通の年と大差ないことが分かった」「どうやら、藩が幕府に過大な報告をしたらしいが、こうなると、50万人の餓死者という数字も怪しいもの
で、実際ははるかに少なかったのではないだろうか」と推定している。
公式文書の残す記録はけっこう恐い。現在はそれにメディアという存在があるからもっと恐ろしい。文書類の氾濫である。後世の史家はこうした文書を根拠に新たな歴史を書きつづることになるからだ。
そんなことを考えているうちに白子の集落に入った。江戸時代、筆者が歩いた細い道を年間30万人もの人が歩いていたのだそうだ。1日1000人弱が飲んだり食ったりしたのだから、大した賑わいだったのだろう。(2006年4月19日)
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