熊野を考える(2)
経済評論家で有名な故三鬼陽之助氏は尾鷲の出身だった。尾鷲も熊野の一部である。その尾鷲の西端の海岸線に三木浦という寒村がある。三木もその昔は「三鬼」だったから、たぶん陽之助氏の祖先は三木浦にいて、いつの時代か尾鷲に移ったはずである。三木浦の三木小学校の戦国時代、三鬼新八郎の居城があったところである。
9匹の熊野の鬼たち
その三木浦をさらに西に行くと二木島という村がある。二木さんという苗字があり、仁木という苗字もある。同じように二木も仁木もむかしは「二鬼」だっ た。三木浦から二木島にかけての熊野の海岸線はリアス式で複雑に入り組んだ入り江が随所にある。そのほぼ中間に楯が崎という断崖がある。日本書紀によると 神武天皇が東征の折、ここから半島に上陸し、大和を目指した。先導したのはもちろん三本足のヤタガラスである。
二木島からさらに西にいくと鬼が城(おにがじょう)があり、その向こうが木本となる。
鬼のつく苗字で一番有名なのは九鬼さんであろう。
戦国武将で九鬼嘉隆がいた。九鬼一族は熊野水軍を率いて織田信長につき、後に秀吉に仕えて大坂・石山本願寺攻めでは鉄甲船をつくって軍功を上げたが、徳川の代になって、摂津三田ならびに丹波綾部へ転封され、海との接触を断たれた。一族はもとは尾鷲の九鬼に本拠を置き、戦国時代になって志摩に進出、嘉隆の時代には鳥羽に城を築いていた。
筆者にも九鬼さんという友人がいた。三重県四日市市の出身だった。もちろん祖先は尾鷲の九鬼で、九鬼水軍の直系だといっていた。氏神さまは九木神社。神社に鬼の字をつかうのはさすがにはばかられたに違いない。
これで「二鬼」「三鬼」「九鬼」とみっつの鬼たちがそろった。もうひとつ「八鬼山」という地名が尾鷲にある。熊野古道の峠にもなっている。八鬼山に登ったことがあるが、霧で眺望が期待できなかった。みっつの鬼の里は海岸線にあるが、八鬼だけは山の上である。里人に聞くと「晴れると山頂から、二木、三木、九鬼の里がみえる」のだという。熊野灘を見晴らす山頂には烽火台があって、緊急時には入り江ごとに住み着いた水軍に号令をかけた。そんな空想をさせる場所である。
九鬼さんに「熊野には何匹の鬼がいますか」と問うたことがある。「よっつまで見つけたんです。二と三があり、八と九があるのだから、どこかに一と四、五、六、七の鬼がいるはずです」。
まもなく一については解決した。熊野市の木本は「きのもと」と読み、もとは「鬼本」だったと聞いたからだ。そうなると残りは四、五、六、七の鬼となる。
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コメント
遊木(ゆき)というところがあります。四鬼(ゆき)は強引でしょうかね?
投稿 | 2007年11月10日 (土) 02時23分
11月9日、NHK神戸の視聴者参加番組「新兵庫史を歩く」で三田市内の歴史を勉強してきました。市内の心月院には九鬼家代々の墓所がありました。立派な五輪塔の墓石が立ち並びまたすぐそばに白洲次郎と妻正子の墓もありました。三田城の濠の一部が現存しており、そこで水軍としての誇りを失いたくないとのことで、戦の訓練をしたとのことであります。九鬼一族の無念の程が察せられました。今でも九鬼一族の末裔の方が住んでおられる家の前を通って行きました。九鬼嘉隆が身近に感じられました。
投稿 上村 惟允 | 2007年11月11日 (日) 10時38分